無の哲学

 
無の哲学

20代の頃、色々な本を買い漁っては乱読していた。無知だった私は、様々な本を読むことで世の中の仕組みを知ろうとしていた。1年間で100冊以上の本を読んだ年もあったが、ある本に出会ってからはそこまで乱読することを止めた。ある本とは、福岡正信氏の書いた「無の哲学」である。おそらくりんご農家の木村秋則氏の本を読んだことがある人であればこの名前を知っているだろう。木村氏は福岡氏の本を読んだことがきっかけで、りんごの無農薬栽培を成功させた。

福岡正信氏について

福岡氏は、「自然農法」を世に知らしめた人物である。「農薬も肥料もやらない、何もやらない農業」が自然農法という事であるが、この農法の出発点は、25歳の時に突如として襲ってきた晴天の霹靂のような体験であった。

福岡氏は当時、横浜税関の植物検査課に勤めており、外国から輸入される植物の検疫をしたり、輸出する植物の病気害虫の検査をしたりしていた。顕微鏡をのぞきながらの根気を要する仕事であったが、まだ多感な年頃であり、仕事を終えると夜は夜で遊びまわっていた。そんな若さ特有の働きに翻弄されて、心身の疲労が積もり積もってある日、急性肺炎をひきおこした。警察病院の屋上にある気胸療法の病室に入院することになったのだが、急に孤独な世界に放り込まれ、そこから色々な懊悩が始まった。

自分は、今まで何を頼りに何を目指して生きてきたのか、親や家族は本当に頼れるのか、研究とはただの売名行為ではないか、原子や電子が宇宙の構造と似ているとしたらあまりにも偶然過ぎるのではないか、人間の生命と森羅万象との間にはどういう結びつきがあるのか。そんな疑問と向き合う日々が続いた。

退院した後もその煩悩は収まらなかった。ある夜、一晩中野良犬の様に歩き回り、気が付くと山手の断崖の上に立っていた。茫然自失の状態が続き、夜が白々と明け始めた。潮風が一陣さっと吹き上げ、断崖の一角がふっと姿を現した。その瞬間、五位鷺が鋭い声を発して飛び去った。そのとき、晴天の霹靂の様にひらめいたものがあった。

「無い」「何もなかった」「この世には何もなかった」

福岡氏は、断崖の上で驚愕と歓喜の叫びをあげ、立ち上がった。

「無」とは何か

この体験のあと、福岡氏の頭に去来したのは、「無」の一字を大梧したという自覚であり、釈迦や達磨が知った智慧も、自分の知った智慧も寸分の違いもないという確信と驚きであった。

人間の名誉欲、利欲、色欲、喜怒哀楽、全ての感情・理性は無に出発し、無に帰する。「般若心経」にもこう書かれている。

「照見五蘊皆空、度一切苦厄」(しょうけんごおんかいくう、どいっさいくやく)

人間の肉体も、視覚・聴覚といった感覚も、それを受け取る知覚も、意思や認識といったあらゆる精神作用も、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」という実体は、この世のどこにも存在しない。

「五蘊」とは、人間を構成する要素である。

色(人間の肉体)

受(外から受け取る感覚)

想(感覚に対する想像)

行(何かを行おうとする意思)

識(感覚に対する認識)

西洋哲学ではデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉に有る様に「我」は有ると言っているのであるが、東洋哲学では般若心経に有る様に「我」は無いと言っているのである。

般若心経とは:

約2500年前、釈迦はインドのブッダガヤ―の菩提樹の下で悟りを開いた。その時知りえた「智慧」を弟子に教え、それが後世に受け継がれ、サンスクリット語で文字おこしされた。それを約1500年前、玄奘三蔵が中国へ持ち帰り262文字の漢字に翻訳したものが「般若心経」である。(この話は「西遊記」で有名である)

ここには、悟りをひらくための教えが説かれているとされているが、この中で繰り返し伝えられている文字が「無」である。

例えば「本」という物体は、それを人間が見るから「本」になるのであるが、「本」を知らない赤ん坊や、犬や猫が見たら「ただの四角い物体」あるいは「紙の集まり」と認識されたりする。つまり人間が認識しているものとは、人間が「分別知」によって勝手に決めつけたものであり、自然界から見た「真実」とは別物なのである。

「無」を農業に応用

この体験から福岡氏は、「人知、人為は全て無駄である」という思想を持つ様になる。これは農業に対しても当てはまるという確信を得た福岡氏は、故郷の愛媛県で何もしない農業を目指した。人間の知恵や営みが無駄であるという事を、農業というフィールドで実証しようとしたのだ。

紆余曲折はあったものの、結果的に自然農法は成功し、無農薬無肥料不耕起で従来の慣行農法以上の収穫量を上げるようになった。

「無」は人間を苦悩から解放させる?

知識の中に知識を放り込む。たくさんのことをすればするほど人間の悩みは拡大し、収拾がつかなくなる。情報化社会になり、人間は毎日消化しきれないほどの情報を浴びる時代になった。たくさんの仕事が生まれ、朝から晩まで仕事をするようになった。それによって人間は幸せになったか、満足のいく人生が送れるよういなったか。答えはノーである。情報を浴びれば浴びるほど頭は混乱し、仕事をすればするほど心身は疲れ果てる。「無明」(真実ではない事)に翻弄され人生を消耗する。

人間はどう生きるべきか。

何もしなければ苦悩する事もない。

そのとおりであるが、現代社会で何もせずに生きていくというのは、ほぼ不可能だ。

ただ「無」の思想(人間が考える事や、行うことは全て幻だという事)を知っておくことで、自分の苦悩を少しでも緩和することが出来るのではないかと思う。


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